妻、多佳子の葬儀について、私の手記を以下にまとめました。私のような欧米の方は、仏葬がどのようなものか興味を持たれるかもしれません。また、私自身の思いや妻の人生について興味を持たれる方もいるかもしれません。そして、私にとってこの手記を書くことは悲& #12375;みの浄化作業であり、この度の経験の心覚えを残すことでもあります。読んで頂くことによって、皆さんの心に何か残るものがあれば幸いです。

私の妻である斉藤多佳子は、7月29日木曜日の午後8時10分、私と愛犬のジョージョーに見守られながら、自宅にて亡くなりました。日本では、病院で人が亡くなるとすぐに自宅に運ばれ、荼毘に付すまでの数日間はドライアイスを使って自宅に安置されます。この間、自宅は開放され、親族や友人、近所の方々が最後のお別れに訪れます。妻の場合は自宅で亡くなった為、担当医が生命維持装置を取り外し、妻の死の正式な報告に来宅した翌日7月30日の午前8時15分までの半日ほどを私とジョージョーのみで過ごすことになりました。看護師に妻をウェディングガウンに着替えさせてもらうと、私たちは指輪などの宝石類を彼女に付けて身支度を整え、写真や妻が日頃から使っていた化粧品やラベンダーオイルを傍に置きました。彼女の家族はすぐに自宅に駆けつけ、数名の近所の方もその日のうちに弔問に訪れました。私が外国人ということでキリスト教式の葬儀を行いたいだろうと思われたのか、義理の母や担当医、看護師からどのような葬儀を行いたいかと聞かれたので、担当医と日英二ヶ国語を話せる ;友人たちに下記のメールを送り、私の考えを家族に説明してもらえるようお願いをしました。

「妻の多佳子は私たちの結婚を取り持ったインドの聖人(無上の幸福の聖母、アムリタナンダマヤ)やマザーテレサ、そしてイエスキリストを敬っていました。私たちはヒンズー教様式の挙式を行いましたが、その聖人がヒンズー教に属している訳ではありませんでした。彼女自身もいわゆる宗教を信仰するのではなく、国境を越え、様々な宗教に及ぶ神聖な言葉や偉業を 0449;念としていました。その点では私の考えも同様です。私たちの宗教を聞かれた場合、普段の生活を考えると一番適した答えは「仏教徒」であると思いますが、本当のところは○○教という宗教名に決まったものではなく、多くの人類に認められている崇高な言葉や行いを敬い 2289;志としていました。

妻は、葬儀がキリスト教式であろうと仏式であろうと、高価なものではなく、簡素で自宅から近い場所での葬儀を望んでいるだろうと私は思います。彼女は純粋で正直な心の持ち主でしたので、家族やその他の人々が良いと思う方法に賛成すると思いますが、生前からシン& #12503;ルな生活を望んでいましたので盛大過ぎない式を希望していると思います。
以上のことを親族やその他関係者に伝えて頂き、どうか今後の準備にご協力頂けますようお願い申し上げます。」

結果的に、家族が手配してくださった葬儀は素晴らしいものでしたが、その費用を知った時の私は、正直なところ少なからず驚きました。彼女の兄/弟の話によると、多佳子はとても花を愛した人だったので供花を多少追加したものの、一般的な葬儀よりは安く、シンプルなものであったそうです。確かに、彼女が亡くなる前には私と彼女の家族との間に誤解やわだかまりがあったこともありましたが、それぞれが納得で& #12365;る形で葬儀を行うことができ、それまでのことも消え去ったような気がします。私は家族のご協力に深く感謝しておりますし、これを見て多佳子も微笑んでいることでしょう。

家族側は土曜日まで遺体を自宅に置いておきたかったようですが、私自身はもう一晩遺体と過ごすことはどうかと思ったので、葬儀場に運んで頂くようお願いしました。その夜、ミュージシャンとしての私には非常に重要な、注目を集めていた演奏の予定があった為、午後< /span>4時には自宅を出なければならず、ちょうど私が自宅を出る時間に、葬儀場へ向かう車に運ばれる妻に手を振ると涙が溢れました。後日、その夜の私は一心不乱に演奏していたことを会場のバーテンダーから聞きました。最初は冗談だろうと疑いましたが、本当にそうだったかもしれません。

翌日の7月31日、土曜日の午後2時頃、妻の家族が私を迎えに来たので、黒い喪服に身を包んだ私たちは自宅を出ました。葬儀場のエレベーターで地下に下りるとロビーがあり、そこに置かれたテーブルには、葬儀社の方から頼まれて私が前日に用意した妻にまつわる思い出深い物が美しく飾られていまし& #12383;。私が用意したのは二人の結婚証書や、挙式や新婚旅行、その他旅行中に撮った何冊ものアルバム、妻のお気に入りであったワイングラスと開けずにとっておいたシャンパン、シンガポールで公的な結婚式を行う前の2000年4月、インドの聖人アムリタナンダマヤ(略称アマ)によるスピリチュアルな結婚の儀式での品々、スターバックスのコーヒー、化粧品など、2人の思い出やタカコが愛用していた物でした。参列してくださった方々にも、私たちが一緒に過ごした日々や多佳子の一面を知って頂けたのではないかと思っています。

弔問客が訪れ始める前に葬儀場に到着した僧侶と挨拶をする為に、私たち遺族はある部屋に呼ばれました。葬儀が始まるまで、僧侶はそこでお経を読んでいるということ、その他僧侶が何を行っているかについては後で説明をすると家族に言われました。その時の私には、& #23478;族からの説明は私が求めているものと一致していないように感じましたが、今振り返ってみると、それが十分な内容であったと思います。

思い出の品々が飾られたテーブルを越えると、昨日自宅から運ばれた多佳子のいる広間があり、その広間からロビーをはさんだ反対側には、私たち遺族が待機できる畳の部屋がありました。葬儀が始まる前に多佳子の身支度をもう一度確認してあげるように家族から頼まれ& #12383;ので、ウェディングガウンを着ていくつかの愛用品と共にひつぎに横たわっている彼女を一番気に入っていたかつらに取り替え、指輪をもういくつか付けてあげました。 それが終わると、私たちは彼女の顔だけが見えるように扉の付いたひつぎのふたをし、広間正面にずらりと並んだ供花の& #20013;央に動かしました。ひつぎの中央上方には、結婚パーティで夜会ドレスを着た多佳子の遺影が飾ってあり、前方には線香立てや鈴、ろうそくなどが台の上に置かれていました。葬儀ではその台の前に僧侶が座り、私が作った「Saito’s Serenade」を含む妻が好んでいた曲がバックミュージックとして流れる中、弔問客は広間に並べられた椅子に着席できるようになっていました。

中には遠方からの方もいらっしゃいましたが、親類や知人が到着し始めると、左脇に喪章のリボン、左手に数珠を持った遺族は前方の席に、そして全員が続いて席に着きました。葬儀社の方からの開式の辞があると、僧侶が入場し先に挙げた台の前に座り、長い読経を始め& #12414;した。同じように唱えることが出来るわけではありませんが、お経が書かれた冊子が渡され、私たちは時おり両手を合わせて祈りました。

読経のある時点で、多佳子の兄/弟と私は祭壇の方へ歩いていくよう促されました。僧侶と弔問客との間に置かれたテーブルには、多佳子の小さい遺影、粒上のお香と熱い灰がそれぞれ別に入ったつぼが2つ置いてあり、香をつまんで灰の入っている香炉というつぼに移すことを2度行いました。焼香を終えると、私たちは僧侶の右側にある弔問客のほうを向いて置かれている席に着きました。焼香は遺族から始まり、続いて全ての弔問客も2名ずつ霊前に進んで一礼すると、私たち遺族に対しても一礼し、焼香を行うとまた霊前に一礼、遺族に一礼をして席に戻って行きました。

一同が焼香を終えると、僧侶が話を始めました。もちろん日本語でしたので私には理解できませんでしたが、次のような内容だったそうです。「このような若さで突然亡くなってしまわれたことに、驚き悲しんでらっしゃる方もいるでしょう。しかし彼女の死は、我々に死について考える機会を与えてくれ、魂とは、それぞれに与えられた人生をどのように送るか、そして避け難い死をどのように迎えるかといった事柄について考えるよう注意を促して下さっているのです。」僧侶は自ら僧としての信仰について語り、それらが 356;かにキリスト教に近いものであるかも話された後、式場を後にされました。続いて葬儀場の方が閉式の挨拶をし、隣の部屋と遺族の待機用の部屋に食事の用意があることを伝えました。それからは家族や親戚とすしを食べ、お酒を飲み、多佳子の姉/妹のアメリカ育ちの子供たち二人に通訳の大部分を頼りながらも、様々な思い出話に会話が弾みました。

広間は、弔問客がいつ訪れても良いように開放され、本来は遺族が一晩中遺体に付き添うことになっていました。弔問にいらした方はそれぞれ線香をあげ、祈りの言葉を口にし、そして鈴を鳴らして行かれました。私たちは隣の部屋で食事を取っていましたので、代わる代& #12431;る線香の火を切らさないよう線香をあげ、鈴を鳴らしに行きました。

翌日の準備が必要だった私は、お酒を飲みすぎていたこともあり、午前3時頃に義理の母と姉/妹に付き添われて自宅に帰ることになりました。翌日の8月1日の日曜日、ちょうど4年前にシンガポールで挙式をあげたこの日、7時には起きて仕度を済ませ、義母と義姉/妹は既にタクシーで先に家を出発しましたが、私は愛犬ジョージョーと一緒に9時45分前に葬儀場へ戻りました。着いてまもなく、私と義理の兄/弟は遺族を代表して出棺前のあいさつを行うように頼まれたので、1時間ほどかけて準備をしました。義理の姉/妹の子供たちに助けられながらあいさつ文を書き終えると、今度は義姉/妹がそれを日本語に訳し、私の後に彼女がその日本語訳を読むことになりました。 (この手記の最後に、私が読んだあいさつ文を載せています。)

正午から1時の告別式のために、多くの会葬者が訪れ始めました。この日の式は、前日の葬儀の内容と非常に似ていて、私たちが着席していると僧侶が入場し、お経をあげ、鈴を鳴らしました。続いて私と兄/弟が遺族代表の挨拶をそれぞれ行いました。その時、私の友人であるミュージシャンが2人来てくれていることに気づきました。

あいさつが終わると、葬儀社の方は多佳子の棺からドライアイスを取り出し、祭壇からおろして部屋の中央に動かしました。私が一番に棺のもとに呼ばれ、出棺の前に棺の中に入れたいものや取っておきたいものがあるかと聞かれたので、コーヒーやジョージョーと私たちの写真のそばに、用意して頂いていたバラのドライフラワーとアマによる挙式の際に頂いた神聖な粉を入れ、最初の結婚記念日に私が贈ったダイヤモンドの指輪を彼女の指から外しました。アマに清めてもらった指輪も外そうかと手を伸ばしましたが、これは彼女に残しておこうと思い直し、代わりに私が作ってあげたブレスレットを外そうとしました。しかし、着けておいてほしいと彼女が願っているのかブレスレットはなかなか外れず、そのまま取らずにおくことにしました。その後私たち 399;一輪ずつ渡された花を、多佳子の母から順番に棺に入れました。私の番が来るとジョージョーを呼び、「ジョージョー、ジャンプ。」と言うと、ジョージョーは前足を棺に乗せて自分の飼い主であった多佳子を見つめました。同じ動きを二度したので、ジョージョーに向かっ 12390;「多佳子にお別れを。」と語りかけました。とても賢い犬なので、その時何が起きているのか伝わっていたのかもしれません。改めて、犬をあの場に許可して頂いて本当に良かったと思います。多佳子はとても喜んでいたことでしょう。後日、とても行儀が良い犬だったと皆 が言っていたと家族の一人から聞きましたが、確かに、ひももつながずに丸二日間を過ごすことができました。

各自が花を入れ終わると、棺を閉め、僧外で待機している霊柩車に棺を運ぶようにと僧侶が促しました。火葬場はすぐ隣にあったので私だけが霊柩車に乗り、歩いて移動した親族とほぼ同時に火葬場の入り口に到着しました。

火葬場のかまどの前には多佳子の写真が立てられたテーブルがあり、私たちはそこに集まりました。彼女の棺がかまどに入れられ、ドアが閉められると、私たちは二階の部屋で待つように通されました。火葬が終了したという連絡を聞いて下の階に降りると、かまどのドア& #12364;開き、台の上には多佳子の骨がありました。火葬場の方がそっとブラシをかけて二つの金属バットの上に骨を移すと、大きな箸と骨壷が用意してあるテーブルの上に置きました。私から順番に二人一組で、骨を箸ではさんで骨壷に入れていると、火葬場の方がどこの部分の骨 ;であるかを教えてくれました。全てを骨壷に入れ終わった時、私は彼女の遺骨に触れることができるかと尋ね、多佳子の頭をなでた時のようにやさしく触りました。骨壷のふたを閉めて絹でできた袋に入れると、私が大きい骨壷を、義理の母が小さいほうの骨壷、そして兄/弟が遺影を持って葬儀場へ歩いて戻りました。

葬儀場では昼食が用意されていました。部屋の正面の席には多佳子の写真が立てられ、彼女の昼食も私たちと全く同じように用意されていました。お茶とお酒のどちらが良いかと聞かれたので、彼女にはお茶を用意してもらうことにしました。私たちはあまり話すこともな& #12367;昼食を取っていましたが、料理も飲み物も減ることのない彼女の席を見た私は、涙を堪えられなくなってしまいました。多佳子の姉/妹はそんな私の背中を擦りながら片手を宙に上げ、「多佳子は今、皆の傍にいてくれているんだよ。」と言ってくれました。部屋の隅には、待機用の部屋に置いてきた私物やロビーに飾ってあった妻の愛用品等が一箇所にまとめてあり、葬儀社の方が運んで来てくださった& #12424;うでした。さらにありがたいことに、全て自宅まで運んでくださるということで、私は遺骨を助手席に置き、ジョージョーを後部座席に乗せて車で自宅に帰りました。

私が帰宅すると少し遅れて多佳子の家族が着き、葬儀社の方も葬儀場に残していったものを運んで来てくださいました。彼女がとても気に入っていたスペイン製の木製ドレッサーのある寝室に祭壇の場所を準備しておいたので、花で飾った祭壇をそこに作って頂きました。遺骨が鈴やお線香、ろうそく、数珠、アマの写真等と共にベッドを見つめるように祭壇に安置されると、私はろうそくに火をつけてお線香をあげ、鈴を鳴らしました。

祭壇の花が枯れ始めたらどうしたら良いのかと思い、義理の姉/妹に相談すると、兄弟に電話をしてもらえれば葬儀社に連絡をして生花を交換してもらえるということでした。二階の寝室には遺骨を安置したので、一階の居間には弔問客がいらっしゃっても良いように、葬儀場のロビーに飾ってあった妻の遺品や写真を飾りなおそうと考& #12360;ています。

8月1日、日曜日の午後6時頃になって家族は自宅の千葉へと帰られました。その後私は半日以上も眠り、翌日の8月2日に起きると、まずはろうそくに火を灯してお線香をあげ、鈴を鳴らしてからこの手記を書き始めることにしました。しかし、ようやく書き終えてプリントボタンを押すと、何らかのエラーが起きて印刷が始まる前にコンピューターが「強制終了」してしまいました。コンピューターに詳しい友人数人に電話をかけてみたものの、私が「保存」をしなか& #12387;た為に書き上げたものは完全に消えてしまったようで、この二度目の手記を書き始めることになりました。

日本では、一般的に仏式の場合、人の霊は死後49日間はその家にとどまると言われ、その間は遺骨を家族のいる自宅に安置することが多いようです。私が理解した限りでは、この期間の霊は現世と来世の中間にいるので、遺族が法要を営んで供養することで、死者が天国に行けることが決まったり、最後に辿り着くべき場& #25152;へ導いてもらえるようになるということでした。しかし私たちの場合、アマによる結婚の儀式を済ませ、互いの愛情もよく理解していましたので、多佳子は正しい場所へ導いてもらえることを今から確信しています。また、四十九日までの間はまだ友人や親戚がお悔やみに訪 ;れる期間となっているので、先日は葬儀には出席できなかった多佳子の幼少時代の友人四人が弔問にいらっしゃいました。亡き彼女を偲びに、今後も親戚や友人がまだいらしてくれるのではないかと思っています。

欧米の葬儀で埋葬を行うように、四十九日が明けると葬儀の時と同じ僧侶を招いて、家族の選んだ墓地に埋骨する埋骨式を行います。例えば、骨壷を二つにして多佳子の家族と私のために分骨することも可能とされていて、この場合は私が個人的に供養の式を行うこともで& #12365;ます。私の中では式を行うというよりも、散骨(現在は日本でも法的に認められています)を行う前に、遺骨を抱いて多佳子が好きだった横浜公園へジョージョーとピクニックに行くか、あるいは思い出深いシンガポールにでも行こうかと思いました。しかし現実には、遺骨を砕骨したわけでもないので、公共の場で骨のかけらを撒くわけにはいきませんし、投げ& #12383;ところで鼻の利くジョージョーが口にくわえてきてしまうでしょう! まずは遺骨をすり鉢とすりこぎで粉砕して、どうすべきか49日間の残りを費やして考えることも良いかもしれません。

概して、多佳子の死から葬儀を済ませるまで、これといった混乱や問題もなくスムーズに全てが運んだと思います。この数日間はある意味、これまでの苦しみを埋め合わせてくれた気がします。少なくとも、彼女はもうあの苦痛に耐えなくてよいのです。

下記のあいさつは、昨日の出棺の前に私がさせて頂いたものです。

「私の知っている多佳子について少し話させて頂きます。私が知る中で彼女は唯一、どんな人からも嫌われたり恐れられたりすることのない人でした。どんな人にも、苦手に思う人やそう思ってしまう時期というのがあると思います。しかしこの7年間、たとえ私のことを苦手に思っている人であっても、妻に対しては違いました。彼女は本当に誰からも愛されている人でした。生まれながらの親切で、純粋で、優しい人柄が出会う人々を魅了したのだと思います。彼女は自分にはこれといった取柄がないと話すことが& #12354;りましたが、これまでどんな仕事においても成功していましたし、これも誠実で心の優しい彼女だからこそできたのだと思います。

ひょっとすると身内の中にもいるかもしれませんが、彼女のいつも優しい人柄のため、芯の強い一面をご存知ない方がいらっしゃるかもしれません。しかし彼女はとても強い人でした。例えば、私と暮らすために住み慣れた日本の家と家族を離れて、シンガポールまで来て& #12367;れた時、まだ私たちは夫婦でも恋人でもありませんでした。何の先の約束もない状態で行動した彼女を、なんて勇気のある女性なのだろうと思いました。当時の私は14年連れ添った妻と別れ、女性に対して少し疑い深くなっており、再び結婚することへの恐怖心もありました。しかし、そんな私に対して多佳子は一貫して辛抱強く、次第に彼女こそが自分にとって最高のパートナーだと感じるようになりました。結婚した時は、ようやく本& #24403;にふさわしい人を見つけることができたんだと、私は皆に報告したものでした。癌と診断された時に、「あなたは一度も期待を裏切ったりしなかった。」と涙ながらに言ってくれた彼女に対して、息を引き取る前、「多佳子こそ一度も私を裏切ったり見捨てたりしなかった。」と伝えました。私たち二人はお互いのために尽くしていましたし、それは今も続いています。

さらに、多佳子の強さ 2420;勇気は、死に直面して過酷な病と戦ったこの一年が物語っているでしょう。彼女は、「死ぬことを怖いとは思っていないの。大したことじゃないわ。」と言ったことがありました。どれだけの人がこんな風に言えるでしょうか。また、どれだけの人が彼女のような状況にあの& #24375;さと尊厳を持って対応できるでしょうか。妻の入院中に、私が体調を崩して自宅で苦しんでいたことがありました。そんな時ある友人は、「どうしたら幸せを見つけながら生きていくことができるか、多佳子が教えてくれているんだよ。」と指摘しました。 それというのも ;、彼女は悪化していく病状にあっても、私たちが病室に入るときは必ず笑顔で挨拶をしていました。その友人が言いたかったことは、死に直面して病と闘う多佳子が気丈に振舞う中、どうして我々が自分たちを哀れんだりすることができるだろうということでした。これは私{ 83;ち全員に向けて、多佳子からの教訓だったと思っています。人がどうあるべきか、どうなれるか、彼女は私にとってのお手本です。

最後に、彼女が亡くなった時について少しご報告させてください。多佳子は私の傍でその時を迎えることを願っていましたし、私自身も妻が病院で一人亡くなっていくことだけを恐れていました。その点においては二人の願いをかなえることができました。息を引き取る直& #21069;には私も一緒にベッドに横たわり、はっきりとこう言いました。「多佳子、今はジョージョーと私の三人きりだよ。そうすると呼吸の間が長くなり、ついに息を引き取りました。妻の死において私たちが願ってきたことは、かなえることができたと思っております。皆様がこ ;のようにお別れに来てくださって、多佳子は喜びと感謝の涙を流していることでしょう。皆様のお力添えによって、多佳子は天国に行くことができたのだと思います。ありがとうございました。」

2004年8月1日日曜日の告別式にて、以上のあいさつをさせて頂きました。これにてこの手記を終え、これからは、先に触れました通り、読んで頂いた皆様の心を動かす何かがあればうれしく思います。私たちの中にある多佳子の不変の愛と笑顔がそうさせているのでしょう。(ある人の中にはより深く隠れてしまっているかもしれませんが!)
Greg Chako, 8月2日 午後5時30分

" One cannot become a guitarist if he has not bathed in the fountain of culture" (人は、文化の泉に浸からなければ、ギタリストにはなれない)-Agustin Barrios Mngore

Greg Chako & 斉藤多佳子
240-0053
神奈川県横浜市保土ヶ谷区新井町204-17
自宅:045-382-3525
携帯:080-5174--8758

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